社交ダンスについて
2002.12.7
世の中にはたくさんの種類のダンスがありますが、このページでとりあげるダンスは、音楽に合わせカップル(男女のペア)で踊るいわゆる社交ダンスです。僕がカップル・ダンスに面白さを感じるのは、そこに「パートナー(女性から見た場合はリーダー)との身体運動によるコミニュケーション」があるからです。独りの踊りにはこれはあり得ませんし、集団で踊る場合も、あらかじめ振り付けを決めるか、あるいはかなり自由に動くことになって、ダンサー間のコミニュケーションは希薄にならざるを得ません。これは音楽でいえば室内楽と独奏曲や管弦楽曲との違いに例えることができるかも知れません。
社交ダンスはアドリブが基本です。音楽の種類毎に基本の動きがあらかじめよく練られているため、その基本を取得すれば身体運動のみで意志や感情の伝達が可能になるため、カップルとしての踊りが成立します。
そして、その基本の原理はあくまで自然で理に適った身体の動きです。競技やショーのダンスをを別にすれば、誰もができるとは限らない技術や記号化された約束事は必要ありません。
僕にとってのダンスは、まず(特定の相手と)音楽に応じた互いの心の動きを言葉を使わずに交換する(感じあう)、音楽の楽しみ方の一つです。そこで交換される心の動きには、リズムや速度、モードやハーモニー、メロディ、歌詞や曲の背景から、演奏や歌い方、さらにはその場の状況やカップルの関係まで含まれることになります。
しかし、社交ダンスの場は2人だけの閉じた空間ではありません。その踊りは必然的に他の人に見られることになりますので、見る人にとっても快いものでなくてはなりません。つまりダンスは、自分達がマナーを守りつつ音楽を楽しむことのできるカップルであることを周囲に見せる(さらに欲をいえばその踊りを通して周囲を楽しませる)行為でもあります。
美しい踊りについて(ダンスのマナー)
2002.12.25
マナーの基本は周囲を不安にさせないことだと思います。不快にさせるのは論外です。踊りを申し込む場合はもちろん、踊りの前後の周囲への挨拶の動作も社交ダンスの一部といえます。これはダンスに限らずスポーツから芸術、囲碁・将棋に至るまで同じですね。頭で簡単に理解できますが、実際にやってみると練習が必要なことがわかります。本当は子供のときからの訓練が必要だと感じます。
踊りの上で重要なのは、無駄な動きがないことだと思います。社会生活同様、不必要な動きは周囲を不安にします。他の人の踊りの邪魔にもなります。 歩き始めのころは、一生懸命全身で歩こうとしたに違いありません。しかし、いつのまにか本を読みながら歩いたりすることを覚えたりして、長い間歩くのは足任せにしてきたつけが回って、僕は練習しないと全身で歩くことができなくなってしまいました。(会社のような共同体においても同じことがいえるような気がします。仮にある業務を担当者任せにするにしても、同時に他の部署が相反する意志に従って動いているように見えたら、社員も取引先も不安になるに違いありません。)
体全体が一つの意志に従って動いていることが見えて、はじめて踊りに美しさが感じられます。その意志の伝達の動きが、体のより細かいパーツ毎に見えるほど、踊りがより美しく見えます。無駄な動きがあると、体全体が一つの意志に従って動いていることが見えないため、見た目にも美しくありません。
その意志がもっともはっきり周囲に見えるパーツ、すなわち頭部/顔/視線の動きはとりわけ重要です。(これも会社の場合に当てはまるような気がします。)手は体から最も離れたパーツとして最後に動く場合と、体の動きを生み出すために最初に動いて意志を表現する場合があります。
意志伝達のスピードは、体のパーツ毎に違います。美しい踊りには、よくできたアニメーションのような物理法則に従ったイージングがあります。
動くタイミングも大切です。必要以上に時間をかけるのは、周囲を退屈させます。きっぱりと潔い動きは見ていて気持ちのよいものです。しかし急ぎ過ぎると、周囲が落ち着きません。
パートナーに対する気配りも周囲に伝わります。ダンスの前後では身体の接触がありませんので、視線での合図が必要なこともあります。理想は日常的にパートナーの空気が読めるようになることです。
美しい踊りについて(美しい書について)
2003.6.22
子供の頃、書道を習っていました。かなり長く習ったのですが、先生のお手本が自分の書く字より美しいとは思うものの、なぜ美しいのか全くわかりませんでした。そして、お手本がないとうまく字を書けなくなってしまいました。長い間、書道とは随分変な芸術だなあと思っていました。
ある時、意味を無視して模様として見てみました。一つ一つの字やそのパーツが、点と線・丸・三角・四角・台形に見えてきました。美は対称性の中にあると思いました。「円は美しい。平行線は美しい。左右対称は美しい。」と。
墨でなく、地の方を見てみました。「空き地が広すぎたり狭すぎたりする字はかっこ悪い。」と感じました。だから、「複雑な字は大きい方が美しく、簡単な字は小さな方が美しい。」と感じました。
一つ一つの字を見ないで全体を見てみました。「重心が滑らかに移動する文は美しい。リズムのある文章は美しい。」そう思いました。
そして、形の美しい書をとおして、その先が少し見えてきました。書き手の身体の動きが理に適っているから、無理や無駄がないのだと。だから自然と美しい形になるのだと。書いた人の感情がリズムとなって書に現れるのだと。そして、その感情が文字の意味と重なるとき感動が生まれるのだと思いました。
ダンスの先生は、はじめから理に適った体の動きを説明してくれます。その説明を聞いて、ダンスの美しさと書の美しさはよく似ていると思いました。
美しい踊りについて(その2)
2003.6.24
書との比較を続けます。ダンスにも、書と同様スコープの違いによるレベルがあると思います。1文字のレベルに相当するのが、1〜数小節を単位とした1まとまりの動作で、通常名前がついています。それより細かい文字のパーツのレベルは、体のパーツのレベルでしょう。より大きな、文あるいは文章に相当するのが、1曲の踊りと考えられます。
体のパーツのレベルの美は、無駄のない動きから生まれます。そのためには、その動作がどういう種類の動きかを意識することが大切です。例えば、円運動は無駄が少なければ少ないほど真円に近づきます。逆に無駄の少ない動きをするためには、円を意識します。
一つのパーツの動きは、平行移動と回転との合成として表すことができます。二つのパーツの関係として、捩れや伸縮があります。ある動きを意識するとき、もっとも重要なパラメータはその不動点です。回転の中心、支点、軸などがそれにあたります。
文字にあたる1まとまりの動作のレベルの美は、的確でダイナミックな動きから生まれます。まず体全体の動き、重心の(前後左右上下への)3次元的な軌跡とその廻りの回転を意識します。ステップはあくまでそれを作り出すための手段です。次に、その運動エネルギーの源を意識します。それは捩れや伸縮からの反発によるバネの力であったり、落下による重力であったりします。
このレベルから少しずつ意味が表れてきます。強く、優しく、スピーディーに、優雅にといった風に動きには特徴があるからです。次の動きへどう繋げるのか、流すのか、止めるのか、加速するのか、弾けるのか、はっきり区別すべきなのも、文字の場合と良く似ています。
まとまりのある動作が連続するとき、文のレベルに達します。大切なのは重心の動きの滑らかな接続です。1曲をとおした、リズムの維持や変化が、形式を生み出します。文章のレベルです。曲想や歌詞や、それらからインスピレーションを受けているはずの演奏と、踊りで表現された内容がずれたり重なったりすることにより、さらに深い意味があらわれます。